国民健康保険制度創設を導いた宗像・福津地域の「定礼(じょうれい)」制度と最後の「定礼医」・高村直嗣(たかむらなおつぐ)先生の遺徳



 

国民健康保険が現代社会で果たしている役割の大きさは言うまでもありません。この制度の下敷きになったのは、宗像地区に古くから根付いていた、医者と庶民を強く結びつけていた「定礼(じょうれい)」制度でした。この定礼が存在しなければ、我が国の健康保険制度はもっと遅れていたと言われ、制度の立案・作成の貴重な踏み台となりました。

       昭和10年(1935年)当時の一般庶民は医療とは縁遠く医者にかかることは大きな経済的負担を伴い、特に農村の不況は貧困に加えて疾病との悪循環となっていたので、こうした状況の改善は火急だと内務省保険局で検討されるも困難視されていました。その中で九州からの報告に接した官僚は目を見張り、かつ驚き、宗像・(現)福津地域の定礼の仕組みを詳細に調査し多くの知見を得て制度設計に臨み昭和13年(1938年)4月1日に国民健康保険法案が成立しました。昭和36年(1961年)からは国民だれもが利用できる制度になりました。

        畦町村・八並村、久末村、本木村・内殿村・上西郷村(福津市)、野坂村大穂(宗像市)の定礼医として、すぐれた医術と高邁な人格で48年の間昼夜、医業に精進された最後の定礼医であった高村直嗣医師(1884~1958)は、医師の鏡として、郷土の恩人として死後半世紀以上経った現在もなお地域で慕われています。『診たては優れ、患者に対する態度は実に親切丁寧で昼夜を問わず、風雨寒暑をいとわず、一切を投げ打って患者のために尽くされる人だった。険しい山道も馬に乗り駆けつけた。』とされます。近年、記念碑の土地が売却されるに際し、没後半世紀以上経過し故人に接したことのない方々が大半にもかかわらず伝え聞く世代の異なる近隣・有志の皆様が”後世までその遺徳を称えん”と自然発生的に資金を拠出し合って記念碑を移転し現在も大切に護られています。

 



江戸時代、農村の人たちは凶作が続くと収入が減り、病気になっても医者にかかれませんでした。村人たちは話し合った末、医者にかかってもかからなくても収入に応じて定まった額の米(後にお金)を医者に渡し、気兼ねなく治療を受けられるようにしました。お互いに助け合っていくこの方法を「定礼(常礼)」と言っていました。

※定礼と常礼:宗像の人々はまった額をおとするので定礼、日頃お世話になっている医者

 へのおという意味で常礼とも言いました。(どちらも読みは「じょうれい」)

※米の場合「定礼米」、お金の場合「定礼金」、医師は「定礼医」 と称していました。


  宗像(むなかた)地区では、江戸時代後期から第2次世界大戦末期頃までに、約60の大字(おおあざ)のうち36の大字と大島で存在していました。宗像市鐘崎では漁業で生計を立てていたので、「鯛網(たいあみ)」という共同で行う漁でお金を作り、医療費に当てていました。




       政府派遣の調査官は神興共立医院の安永桂定礼医から詳細を聞取り調査


昭和初期の神興共立医院(通り堂区) 村民と安永喜八郎医師(右端)


昭和10年政府派遣の調査官は神興村手光の区長や神興共立医院の安永桂定礼医から詳細をヒアリングしたとされる。

各家から玄米を集め、医者に差出すことで1年間治療を受けられました。平均は1世帯1俵半(約90kg)でしたが、豊かな人は最高4~5表(約240~300kg)、貧しい人は最低5~6升(約7.5~9kg)と開きがありました。

各地区の様子

 

手光・津丸地区

明治時代中期、赤痢が大流行。米を拠出し合い1899年(明治32年)に村立の「神興共立医院」を設立し医師を招請。

 

内殿地区

地区に1人の定礼医が普通で選択肢はなかった。当地区は無医村であり他の地区の医者を選ぶことができた。他の地区と異なり拠出金から3割を補助してもらい、7割が自己負担であった。現在の国民健康保険制度に近い仕組みであった。

 

斜利蔵地区

江戸時代後期の天保年間(1830~1843年)頃未始まり、最も古い定礼。無医村であったので糟屋郡菰野村(古賀市)の医者を定礼医とした。牛による2俵の定礼米の峠越えは難儀であったとされる。

 

鐘崎地区

漁村に定礼があるのはめずらしく、大正期に始まった。春から秋にかけての鯛漁の季節に当日は個人の漁は休みにして村中総出で、定礼金を払った人も払ってない人も一緒になって鯛網引きを行い、市場に出し換金し未納の定礼金を医者に渡しました。鯛網引きは年に何回というきまりはなく必要になった時におこなっていました。

 

その他

牛馬にも定礼がありました。1903年(明治36年)に宗像郡獣医師会が作った牛馬常礼法には、牛は1頭につき玄米5升(約7.5kg)、牛は6升(9kg)を出すなどと書かれています。

【参考資料】

福間町史

やさしい福間町の歴史

【現地視察】

2015・10・30撮影


                                                                

         →常礼と国保

取材投稿 昭和47年卒 加藤和久