孝子「武丸正助さん」

 

現代は親が子を虐待して殺してしまう、逆に子が親に手をかけてしまうニュースが後を絶たない、誰しもが深く憂うる時代です。社会的背景には物質的には昔より豊かな反面、精神的貧困が広く蔓延し拡大しつつあることを誰もが痛感する時代です。「親孝行」という言葉さえも、死語になりつつあります。 

 一つに教育の問題、一つに弱肉強食の論理の行き過ぎの問題等があるのは誰しも感じている事です。出光佐三翁が常に喚起されたような「日本人本来の哲学」の中に解決の糸口があるとする本能的見直しが各方面で徐々に為されて、世相に明るい側面も出てきています。昨今の多くの震災発生時に全国から手弁当で駆けつけ復興に誠心誠意尽くす多数のボランティアの無償の行為に見られるような美しさは日本の将来への希望と言えます。左右を問わず戦前・戦後の極端な価値観の弊害とその背景を見直し、未来へ向けた真にバランスのとれた伝統的な思想・哲学・行動規範の再考が今ほど求められる時代は無いと言えます。 

 此の地、宗像には江戸時代の一人の偉人「武丸の正助翁」が存在しました。徳川幕府は「孝義録」に数多くの逸話を残しその遺徳を後世に伝えました。一つ一つの逸話の内容の是非を論ずること自体に本質的意義はなく、「奥に理性を宿しつつ、常に他者を思いやるやさしさ、責任感、寛容、忍耐」の体現の姿に接する全ての人々が心打たれ、時代を超えてなお慕われることに本義があると言えます。そこにこの逸話の本質があり、このような愛と寛容の精神が少しでも広がれば社会と未来に希望が拡がるのは論を待ちません。そのような今日的視点から「正助伝」に謙虚に且つ、理性的に向き合い、万古不易の精神性に触れることに意義があり、将来にわたって「ふる里の誇り」とするところです。 

 

 武丸正助は、寛文十一年(1671年)に今の宗像市大字武丸の土師上(はじかみ)というところで生まれました。父は庄三郎。孝子の誉れ高く時の藩主から武丸村の名に因み武丸の姓を許されました。宝歴7年(1757年)没。

 

 逸話の事例紹介(要点・要約) 

「曇りの日、雨が降ると考えた思った父からは下駄を履くよう、また雨は降らないと思った母からは、草履を履くようにと助言された正助さんは、片足に下駄、もう片足に草履を履いた。 」 

宗像市の道路標識や市の広報などに使用されるかわいいイラストは、左足に下駄、右足に草履を履いたものが使われているのはそのためです。 

「お酒が好きであった父に日毎すこしの酒を買う正助に、とある酒屋が酒をただで渡すも、彼はその日からその酒屋に来なくなった。「自分の働いた金で買って飲ませたい」という理由による。」 

「懸命の親の介護。背負う父が軽くなったと妹の前で涙する」 

「両親を敬愛するにとどまらず、公けを敬い、人をあわれみ、世話をした。」 

「正徳元年に没すまで18年間父の介抱に努め、その後は耕作と諸役以外は母に孝養を尽くした」 

「母81歳、正助60歳の折、藩主は正助を城下に呼び、年貢免除、母の孝養手当などの沙汰があったが、正助は感謝しつつも辞退した」 

「年貢米を盗んだ貧しい人の様を見て庄屋から米一俵を借りて、盗人に年貢米と交換させ、輸してもらった」 

「荷物を運んだ帰りは馬が大変だろうと馬に乗らず、蓑笠などの軽いものも馬に付けず、更に鞍を自ら背負ったこともある。」 

「ある時、薪を背負い山より帰る途中乞食に突き当たり、謝罪し焚火をして労わった」 

「池田村というところに住む目の不自由な人のためもえる石(石炭)を持って行ってあげた」 

「疫病が流行した時、恐れて人が近づかない病人の家に正助は往来して助けた」 

「長雨や干ばつの折にも、愚痴をこぼさず自分の仕事を怠らなかった」

 

孝義録 

幕府が1789年寛政元年に編纂し50巻からなる。「正助翁」の文が最も長いと言われています。正助翁に関する逸話は翁の存命中の享保14年(59歳当時)に竹田定直の「筑前国宗像郡武丸正助傳」が著され多くの書き物がある。戦前は小学校の教科書にも掲載されました。近くは「武丸正助翁伝拾遺」(滝口雪雄編書)が総まとめとして著されています。